なぜ「遊び」は学びとして扱われにくいのか──学校制度と評価の歴史から整理する

「遊んでばかり」に不安を感じてしまうのは、個人の感覚だけではない

子どもが何かに夢中になって遊んでいるとき、 「この時間は勉強になっているのだろうか」 「学校の評価につながらないのではないか」 そんな不安がよぎることがあります。

しかし、この感覚は親や教員の性格によるものではありません。 多くの場合、学校制度や評価の仕組みの中で長く刷り込まれてきた 「学びとは何か」という前提から生まれています。

学校制度は「測れる学び」を中心に設計されてきた

近代以降の学校制度は、学習内容を標準化し、 多人数を一斉に指導・評価することを目的に整えられてきました。 その結果、学びは「時間」「量」「成果」で測定しやすい形に整理されてきました。

テストの点数、提出物、到達度。 これらは比較や管理に向いていますが、 子どもが自分で試し、工夫し、没頭していく過程は、 数値化しにくく、評価の枠から外れやすい性質を持っています。

「評価できないもの」は、制度上、扱いづらくなる

遊びの多くは、成果がすぐに見えません。 失敗や回り道も多く、成長が後から現れることもあります。

そのため、制度の中では 「大切だとは思うが、指導計画には書きにくい」 「成果として説明しにくい」 という位置づけになりやすく、 次第に周縁に追いやられてきました。

遊びが軽視されると、「学び」は義務として残る

学びが評価や成果と強く結びつくほど、 子どもにとって学習は「やらされるもの」になりやすくなります。 一方で、遊びは「余暇」「息抜き」として切り離され、 本来持っている試行錯誤や探究の力が見えにくくなります。

こうした構造の中で、 遊びに没頭する姿は「学びから逃げている状態」と誤解されやすくなりました。 これは個人の判断ではなく、制度が生んだ見え方の問題です。

ここまでの整理:遊びが否定されてきたわけではない

重要なのは、学校や大人が遊びを敵視してきたわけではない、という点です。 多くの場合、制度の中で説明できる学びを優先せざるを得なかった結果、 遊びが「学びとして扱いにくい場所」に置かれてきました。

次のページでは、 それでもなお「遊びが学びにつながる」と言える理由を、 脳や発達の観点から整理していきます。

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