大阪メトロに貼られた「民間校長募集」の異様さ

ある日、大阪メトロの構内でふと目に入った1枚のポスター。

「民間校長 募集中」

一瞬、目を疑った。

もちろん、今の学校現場が人材不足だというのは知っている。教員のなり手が減り、現場の疲弊も進んでいる。

でも、だからといって──

「教育を知らない人に、いきなり学校を任せる」って、どういう理屈なんだ。

そのポスターには、希望に満ちた言葉が並んでいた。

「新しい風を」「これまでにない学校経営を」「子どもたちの未来を」

どれもキレイな言葉だ。けれど、それが一体どれだけの現実と、どれだけの痛みに裏打ちされているのか。

この国の教育は、「現場を知らない人」が“正しさ”を語れるほど、単純じゃない。

民間校長という幻想

「民間の力で、学校に新しい風を──」

このフレーズ、よく聞く。響きはいい。耳ざわりもいい。でも、現場で生きてきた人間からすれば、ただの幻想だ。

教育現場は、ビジネスのように「成果」や「数字」で語れる場所じゃない。

必要なのは、カリスマでも、アイデアでもない。

人間関係、信頼、空気の読み合い、矛盾との折り合い。

それが教育現場の「日常」であり、「泥」だ。

確かに、民間経験があること自体は悪くない。だけど、それだけで「校長として学校を動かせる」と考えるのは傲慢だ。

現場の仕組みを知らないまま、“トップ”として君臨する。その裏で、どれだけの子どもと先生が振り回されるか──

そんな簡単な世界じゃないんだよ、教育って。

中学生の声:現実のいじめ

「現役中学生からすると、あだ名禁止にしてもいじめは無くならない。

あと先生が見てない所では普通に、いじめで呼んでるのが現実。

それよりも、いじめ起きる前提で考えて、起きたらどう対処するかを具体的に考えてほしい。」

──これが、今の子どもたちのリアルだ。

大人が「これで安心」と思って敷いたルールなんて、

子どもは簡単にすり抜けていく。

いじめは“起きない前提”で考えるものじゃない。

「起きる前提」で、対処の仕組みを作ること。

その覚悟と現実理解がなければ、教育現場は守れない。

聞くけど、これを読んで──

民間から来た“未経験者の校長”が対応できると思いますか?

民間校長に裏切られた体験談

僕自身、民間校長制度の“甘さ”に振り回されたひとりだ。

あるとき、校内の事情で転勤の話が出た。管理職からも「動けるように調整している」と言われていた。

ところが──直前になって、

「やっぱり異動は無理になった」

理由を聞いても、要領を得ない。

しびれを切らして問い詰めると、

「私は今年で退職だから、もう関係ない。」

驚きと怒りで言葉が出なかった。

だが、もっと驚いたのはその“後”だった。

その民間校長は──

翌年、別の自治体で校長をするための研修で忙しく、

僕の対応なんて、最初から「眼中に無かった」ことが、あとからわかった。

現場に責任を持たない人間が、現場のトップに立つ。

──それが、今の「民間校長制度」のリアルだ。

制度の構造的欠陥

ここまで読んで、「たまたま運が悪かったんじゃない?」と思った人もいるかもしれない。

でも、それが違う。

民間校長制度そのものが、

「責任を育てない構造」になっている

任期は短期。多くは3年。評価制度も曖昧で、現場の混乱が数字に出ることは少ない。

しかも、周囲の管理職や教育委員会が「サポート前提」で動くから、

“形式的なトップ”として、好きにふるまうことができてしまう。

これは制度の欠陥だ。現場で信頼関係を築くこともなく、“上”から来た人間として権限だけを振りかざす。

現場が混乱しようが、教員が苦しもうが、

──その人がいなくなれば、責任はすべて「現場」に戻ってくる。

改革ではなく、責任を

僕は、民間校長制度そのものを全否定するつもりはない。

外から来たからこそ、見えることもある。現場にいなかったからこそ、できる判断もある。

でも、それは「順番」が正しければ、の話だ。

現場に一度も足を踏み入れず、いきなりトップになる。

その結果、誰も責任を取らずに、現場が疲弊する。

──これが、今の民間校長制度の最大の問題だ。

もし本当に“現場を変えたい”と思うなら、まずは泥を踏んでくれ。

最低でも、3年。

教室に入って、子どもと向き合って、教員とぶつかって、

それでもなお「ここで校長をやりたい」と思えた人だけが、現場を語ってほしい。

教育は「意識高い人」がやりたいことを実現する場所じゃない。

子どもの命と、未来と、心を預かる仕事だ。